ねんてんです。
瞑想をやってきたり、やっていきます。
神秘が社会に受肉しています。
みなさんが名前をやっています。
あなたは名前をやっていますか。
名前とは対象と結びついている言葉のことです。
名前は、対象を指し示すと同時に、言葉の持っているイメージを対象へと期待させる・アリュージョンする機能を持っています。
アリュージョンは言葉の性質のひとつです。
ある言葉によって表わされた状況が
その言葉によって表わされる別の状況のイメージに影響された上で、解釈されるという性質のことです。
これは人間のパターン認識能力に基づいた、無意識的な機能です。
名前は、それが何を指し示すのかを知らないと伝わらないことがあります。
とくに、説明なしの専門用語や固有名詞は、知っている人にしか何を指すのかがわからないでしょう。
名前は言葉の中でもローカルなものだということです。
しかし、言葉が伝わったかどうかを判断するには、その言葉でコミュニケーションが成立したかどうかによって、確認されます。
なので、名前がなにを指すのかわからなくても、コミュニケーションが成立してしまえば、言葉の意味がわからなかったとしても、自分以外そのことは分かりません。
わからない言葉があったとき、言葉の意味を聞くことが、コミュニケーションを成立させる重要な方法であると、専門家は言います。
一度でも、わからないままコミュニケーションが成立してしまうと、
今後言葉の意味をわかっていると期待されたままコミュニケーションを重ねることになり大変だからです。
その一方で、コミュニケーションを成立させる自明な方法は、わからないことをお互い何も気にしない、ということでもあります。
もちろんわからないことでなにか重大な問題が発生するかもしれません。
しかしそれさえも気にしない頑丈な人間も存在しています。
そのような人間に勝つ方法は存在せず、コミュニケーションの敗北の正体であると言われています。
わからない言葉を気にしない能力を、才能として開花させたプロが存在しています。
彼らは異言語間のコミュニケーションを迫力で実現します。
そうした気合いは、コミュニケーションの方法としては、グローバルな神秘的手法だと言えるでしょう。
それに対して、ローカルな神秘的手法も存在しています。
それは、対象に名前を付けて、属性を付与すること。その名前が持っているイメージを対象に背負わせること。
名付けによって幻術にかけるという、名前のアリュージョン性に基づいたコミュニケーション方法です。
人間は、名前の付いた対象を観測するとき、名前がもっているイメージを通して対象を見ることになります。
名前のもつ言葉のパターン(言葉の使われ方)を理解することが、名前を通した対象がもっているパターンの理解にまで影響を与えます。
これが名付けによる幻術のしくみです。
この幻術を意図したようにぶっかけるには、つける名前がどういう意味を持つのかを相手と共有(エミュレート)する必要があります。
言葉から期待されるイメージを共有できなければ、意図したアリュージョンにならないからです。
アリュージョンを利用したコミュニケーションにおいては
理解 = コミュニケーション成立 というレベルを超えた、
よりイデア的で仮想的で幻想的な意味での共通理解を必要とするということです。
このことは、知性の有無に関する議論において重要な論点と感じます。
人間はアリュージョンされますが、機械はアリュージョンされるのでしょうか。
存在が一個体をもって宇宙に存在できるのは、存在がアリュージョンされることに由来するように思います。
話を戻しましょう。
名付けによる幻術は、言葉に対する共通の基盤を多く必要とするという意味で、コミュニケーション方法のなかでも、とてもローカルなものだということです。
この幻術を使いこなすうえでの一つの観点があります。
他人を変えることはできない
自分自身だけが自分を変えられる
ということを専門家は言います。
これはまさに真理であるとともに、一つの注意点が存在します。
自分自身という領域は、生物個体の単位としての肉体にとどまるものではないということです。
人間は、他人に期待された自分や、自分があてはまると考える属性までも、自分であると幻覚しています。
人間は、良い意味であれ悪い意味であれ、重要だと感じることに対しては、自分を割き、自己の領域を拡大しています。
そうした拡大された主体を、意図的にしろそうでないにしろ、利用したときに、他人を変えたり、自分を変えられる、ということが起こりえてしまいます。
「結婚をしたら相手も変わる」と考える人が存在することを、専門家たちは予言しています。
結婚を重要だと考える人にとって、結婚によってアリュージョンされることは自然だからです。
また、合意という行為自体が、重要性に対する合意でもあると期待されています。
その意味で、結婚は一つの区切りと言えます。
しかし現実問題として、結婚によってアリュージョンされた結果が、
互いの意図通りになるかは別の問題です。
結婚というものについてのイメージが十分に共有されていなければ、
意図していた変化にはならないでしょう。
言葉は他者へと伝えるために存在しています。
そのため、結婚に限らず、交際や家族や社員など、関係性に名前を付けるということは、
その関係を社会にコンテンツとして提示しているということです。
人間は、関係を好むため、関係を見つけてはコンテンツとして消費してしまうからです。
人間集団は、人間関係が面白ければ面白いほど、様々な推測や期待を抱き、個人に対する呪いを構築してしまうでしょう。
このような悪徳を防ぐため、人間たちは不倫をしないとか、婚前交渉をしないといった、いろいろな倫理を生み出しました。
他者から見た結婚は、コンテンツとしてはすぐに消費し終えてしまう、あっさりとした、つまらない関係性と言えるかもしれません。
だからこそ、結婚は美徳足りえるのではないでしょうか。
しかし、それでは一生恋愛はできないですね。
二人の関係に名前を付けることは本質的に呪いであり、
お互いがその関係を結ぶことに合意した甘い犯罪なのですから。
関係に合意し、約束をして、愛しましょう。
神秘を社会に受肉させるのは、あなたです。
コメントをお書きください
名無し (木曜日, 08 3月 2018 22:03)
なんとなくわかります。
対象に名前をつけると、その名前に引きずられるように対象に個々がイメージをもつことが幻術、ひいては呪いになる、という感じでしょうか。
ねんてん (木曜日, 08 3月 2018)
>#1さん
周囲の多くの人々のことを重要だと考えている・配慮しようと考えているひとにとって、
そうした他者からのイメージは呪いになりえるでしょうね。
あとは、名前が付くことによって、付けられた人が自ら、名前のイメージに自分が当てはまるように行動していく側面もあります。