概念の普遍性と本質性

 "蠱毒" とか "賢者の石" とか、あるいはもっと素朴に

 "気" とか "コミュニケーション" でもいいんですが、

私の知っているなんらかの物理量によっては定義されていない、様々な概念があります。

 

で、実際に「これが "気" なんだ!」とか

「 "賢者の石" を手に入れた!」とか

そうなってしまった神秘体験があったとして、

その "気"  "賢者の石" だと思った対象って

「他人が言っている意味とおんなじなの?」

ぼくは気になってきます。

 

こういう疑問を追求すると、

これらの言葉が何に由来しているのか、とか

これらの言葉はこれまでどのように使われてきたのか、

ということを調べることになります。

 

そう考えてやっと、ぼくは言葉の起源に興味がなかったのかもしれない

と自覚します。だって調べる気がないから。

 

「他人が言っている意味とおんなじなの?」

という疑問に対して答えを与える能力、

調べる意欲・能力のことが教養なんだと思います。

 

自分が信じた神秘体験に対して、知っている名前を借用して

説明する(したつもりになる)ことは、とても簡単なので便利ですが、

すでに存在する名前に対して、誰もが同じイメージを抱いているかはわかりません。

 

なので、ある名前をただ借用するだけでは誤解が生まれやすいです。

ただ、人間は、名前からそれが指し示す対象の [雰囲気] を感じ取って、

同じ [雰囲気] を感じた神秘体験に、同じ名前を使ってしまいがちです。

そうするのが説明上、合理的なのでしょう。

 

人によっては名前に対するイメージがあまりに異なるために、

理解を得られない可能性が当然あります。

そうしたリスクをどう評価していくかの基準を得るために、

ぼくは「他人が言っている意味とおんなじなの?」という疑問を抱いていました。

 

これは、存在にその名前をつけることが、

どれだけ普遍性のあることなのか?という問題です。

 

その存在にその形式を与えることは、

どれだけの広さの射程を持っているか?ということです。

 

結局のところ、独自の語彙を作っていけば、すでにある

語彙イメージの影響を受けるという問題は軽減できます。

伝えるにも理解するにも、それが面倒だというのが問題になりますが。

それはそれとして、

 

1. [存在の形式に関する普遍性] のことを [存在の広さ] と呼ぶことにします。

 

 

なんでこんなことが気になるかといえば、

「ぼくがその言葉を使って誰かに意味を伝えることはできるのか?」

という疑問があるからです。

 

 "気" とか  "賢者の石" って言葉を使ったとして、

すでに存在する言葉は誰にでも口にすることはできる。

けれど、今はその言葉が必要なんだという確信がないと、

こういう神秘体験は言葉にしても意味がないように感じます。

 

その言葉を、自分がどのように理解しているのか、という中身がある上で、

概念説明の省略として "気" とか  "賢者の石" といった言葉を使ってようやく

聞いている側もその言葉が指し示す対象の [雰囲気] を感じ取れる気がします。

 

ここで、実際のコミュニケーションを振り返ってみると、

私たちは発した言葉の一つ一つに、

折り畳まれた意味を込めて、会話できているのでしょうか。

自明なことをいいますが、

「そういう深い言葉もあるし、浅い言葉もある」という話になります。

 

別に意味なんて深くなくても、私たちはコミュニケーションを成立させているし、

むしろ浅いコミュニケーションだからこそ、

私たちは互いに安心して会話しているようにもみえます。

 

そうした言葉の意味の浅さ・深さという視点だけでは、

コミュニケーションの成立に関する本質を突けていないと感じます。

意味の深い会話も浅い会話も、

成立したコミュニケーションとして存在しているように見えます。

 

なので逆に、コミュニケーション不能(かもしれない)な状況を考えてみます。

 

統合失調者は "幻覚" を抱いていることがあるそうです。

 "幻覚" は感覚的知覚と区別されない認知上の感覚で、

物理現象との対応関係が他者とは共有されていない感覚を指す言葉のようです。

 

幻覚は、それまでの経験などで抑圧された出来事だったりとか、受けた感情だったり、

当人の規範的意識や、それをつくりだしてきた、

まわりの人たちの捉え方の影響を反映することが多いように思われます。

 

様々なカルマに基づいて、無意識的に行われた思考を感覚として知覚することが幻覚です。

ここで、無意識的な思考の主体は、存在しないものだと考えれば、

幻覚にまつわる様々な神秘は尊重できるのではないでしょうか。

よろしくお願いします。今回は幻覚の解放がテーマではないので。

 

 

 "幻覚" の内容に基づいた会話が発生したとき、相手はその感覚を知覚していないため、

その会話内容をあまりに唐突な何かだと感じることがあるようです。

 

 "幻覚" が理由でコミュニケーションが成立せず、

それだけで閉鎖病棟にぶちこまれることもあるそうです。

 

 

結局のところ、幻覚者はなにか根深いことを、

無意識的思考によって自動的に知覚しています。

しかし、幻覚のプロセスを通さずに根深いことを認識するには、

意図的に思考することになります。

そうしなければ、知覚していない存在を認識することはできないからです。

 

幻覚者が幻覚により知覚した存在について語る場合、

その存在は所与のものとして語ることができます。

存在それ以上の説明を必要としない、純粋な存在であり、

上っ面の言葉だけでその対象を指し示すことができます。

 

対象を感覚的に知覚できるとき、人はその存在について

理解が浅いままに、言語的な操作を行えるからです。

 

 

しかし、その幻覚を知覚しない他者が同じ存在について語るには、

意識的な思考であったり、 [雰囲気] を感じ取り対象を把握しなければ、

言語的な操作を行うことができません。

 

幻覚者は、幻覚による根深い存在を浅い言葉によって表現することができます。

そのため、同じ幻覚を共有しない他者がその言葉を読み取ろうとしても、

その言葉の [雰囲気] を読み取ることができず、

唐突感がより強く感じられるのかもしれません。

 

「その言葉を使って誰かに意味を伝えることはできるのか?」

というぼくの疑問に対する方策は、自分が使う言葉に関して

相手が浅い言葉に分解できる説明を、相手にとっての深い理解を、

取得しておくということになりました。

 

2. [存在の意味に関する本質性] のことを [存在の深さ] と呼ぶことにします。

 

 

説明が短くなるほど、その本質は深きに沈んでいき、伝わる相手は狭くなります。

言葉を尽くしていけば、その意味は浅いところへ浮かんできて、広く伝えることができます。

 

感覚器官、幻覚器官などの、記憶への入力装置の次元が、

自己の理解の階層に関する特徴量 [感覚の深さ] = [伝わる世界の狭さ] に対応し、

思考や言語の操作能力といった、世界への出力装置の次元が、

他者の理解の階層に関する特徴量 [思考の深さ] = [伝わる世界の広さ] に対応します。

 

概念を解放するのは、あなたです。

関連記事