行動と世界

 

 

人間は、さまざまな行動をします。

私たちが自然言語を通して分節化し、認識する一つ一つの行動は、

ほとんどがそれ単体では無限に繰り返すことのできない、世界に対する改変を伴います。

 

ご飯を食べたあとの食器。

夢をみたあとの丸まった布団。

後で読もうと保存した無数のリンク。

 

おっと、夢を見たりリンクを保存するのは無限にできそうです。

無限に繰り返せるのは、世界を変えない行いだからです。

 

それはそれとして、空になった器のご飯を食べることはできないし、

丸めた布団をまた丸めても、何も変わりません。

 

 様々な行動には、それに伴って責任が期待されることが多いです。

作ったご飯は、食べられて、そして食器は洗われることを期待されます。

丸まった布団は畳まれることを期待され、積ん読は読まれることを期待されます。

 

責任とは、世界をもとの状態に戻すことへの期待を意味します。

責任をとり、もとに戻した結果として、世界は再び

責任を取られるべきさまざまな行動を受け付けることができるようになります。

 

その意味で、責任という概念は、創造のための破壊としての側面を持ちます。

 

そして死を責任の取り方にすることは、

期待された責任を取るべき行動を、

それより大きな、個体の行動としては極大な行動である

人生という行動で塗り潰すことで、行動を対象としていた文脈がすりかわり、

結果的に責任が果たされることを意味しています。

 

あるいは超越的な視点に立つなら、

責任を取ることを期待する人間と、期待される人間が成すコミュニティが存在して、

期待された人間は、死という、コミュニティに対する超越的行動を取ることで

彼がコミュニティに生まれる前の状態へと、コミュニティを元に戻した。

と見ることもできます。

 

もちろん、死によってコミュニティ内部に存在していた

特有の問題が解決することは全く保証されていませんし、

「元に戻った」ということの意味は、そうした細かい、

本質的な事情が解決することではありません。

 

実際的な問題から回復したということではなく、

単なるコミュニティメンバーとしての存在の有無として、

その人がやってくる前の状態に戻った、という意味です。

死が文脈をすりかえるということや、

超越的な視点に立つということの意味は、

このように具体的な事情から離れた文脈に注目させることを意味します。

 

死が生に対する責任の取り方であり、世界を元に戻すのであれば、

元に戻った世界では、同じ行いを受け付ける準備が整ったはずだ。

死んだ後、再び世界に生まれることが可能なはずだ。

という、行動と世界の関係を超越化したアナロジーによって、

輪廻転生の概念が構成されます。

 

また、責任の概念を素朴に超越化したり、あるいは

責任を取って世界が元に戻ったとしても行動は経験として自己に蓄積されていくことを超越化するなど、

観点はいくらでもありますが、行動を超越化することでカルマの概念が構成されます。

 

こうした超越化のアナロジーは素朴に行われていて、どの程度妥当なのかは全くわかりません。

しかし、物理的宇宙を自己で局所化し、人生を通した経験から宇宙を知ろうとするのと同じ程度に、

人間が超越的世界を想像する上で、自己で局所化された世界を利用することは重要な手法です。