思考のエレメント

0.Introduction | 思考の三すくみ

瞑想とはなんなのか、という神秘があります。

瞑想とは考えることです。あらゆる思考のことを瞑想と言います。

 

「え?ヴィパッサナーとか、考えることをやめる瞑想が、あるじゃん」

と思うのはごもっともです。

 

例えば0が、1や2に並ぶであるのと同じように、

考えないことも思考のひとつとして考えます。

 

そういうふうな思考という概念の話をします。

 

思考のあり方は大きく分けて3つに分類できます。

それは獲得判断運動の3つのあり方です。

 

この3つは、次の三すくみの関係性を持っています。

 獲得<判断<運動<獲得...

 

記号の意味は相生関係、つまりABであれば、

「AからBが生まれる」という関係性を意味します。

 

本当にそうなっているかは、

このあとの思考の分類の節で確認していきますが、

今気になる人は、自分で考えてください。

 

この思考の関係は次の対応関係によって魔法の三すくみから作り出した関係です。

獲得=召喚. 何かを呼び出す思考。

判断=反射. 何かを反映した思考。

運動=回復. 何かへと回復する思考。

 

 


1.思考の分類/意味

上記の三つのモチーフと、存在の双対性を利用して、

思考を六つのエレメントに分解していきます。

 

また、三つのモチーフがどういう意味なのかも、

六つの思考と合わせて説明していきます。

 


1.1.知覚 | どのように思考を定義するか

何かを感じ取る心の機能は知覚と呼ばれています。

見たり聞いたりしたとき、心に形や音が浮かぶことを、知覚と言います。

知覚は、心に像を獲得させる、感覚として存在を呼び出す、召喚的思考です。

 

知覚の内容は、記憶を合成することによって、認識として実現されます。

つまり知覚したものを、なんらかの存在として理解するには、

これまでの経験などの記憶、および、記憶を組み合わせる機能が必要になります。

 

そのことを考えると、知覚とは記憶を反映した反射的思考、と呼べそうです。

しかし、知覚という言葉を使ったときに注目するのはあくまでも、

心に像が浮かんでくる機能であり、その像が何であるかを決める機能ではありません。

知覚という思考は、知覚した内容が、召喚したものになっている召喚的思考です。

 

思考を細かく分解して観察したいので、

ある言葉が指し示す概念は、できるだけ狭い範囲になるように言葉を定義します。

実際のところ、思考はそんなにきっぱりと分かれるものではないようにも思いますが、

それは語彙に対する解釈がうまくできていないだけだと考えます。

 

 


1.2.特定 | 思考の三すくみによる思考の分類

知覚したものなどの存在が、何であるのかを認識する心の機能を特定と呼びます。

特定は、あるものを、何か理解できる「それ」に一致させる・向かわせる思考であり、回復的思考です。

 

思考の三すくみにおいて、回復的な思考を運動と名付けた理由は、望んだ未来と今を一致させることが運動であり、その働きは特定と同じものであると考えるからです。

特定する心の働きは、心の中だけの働きだけでなく、肉体的な活動をも意味します。

例えば、駅に行くということは、自分を駅にいる状態に一致させる、という働きです。

なので駅に行くことは特定する思考に当てはまります。

 

何かを特定すること、理解することは、

それまでの自分の記憶や、信念などを反映した思考、

つまり反射的思考であるように見えます。

もちろん、存在を特定するためには、これまでの経験は必要になります。

しかし、過去の情報・目の前の情報・信念など、何かを反映するだけで

理解の内容を決定することはできません。

もし、そのような自動的な、反射的な仕方だけで物事を理解するのであれば、

人間は新しいことを知ることはできないし、自由も創造も実現されていないはずだと考えます。

そのため、特定する思考は反射的思考ではなく、回復的思考であると考えます。

 

こういったとしても、特定することは判断している思考だと思うから、

特定することは反射的思考に分類すべきだと考える人もいると思います。

これは判断という概念の構成の仕方が違うために生じる考えです。

私が言っている判断という言葉は、日常的な意味の「判断」ではなく、

思考の三すくみのうちの反射的思考に名付けた言葉だと今は思ってください。

「判断」という言葉を選んだ理由は 1.6.推論 の項で説明します。

 

目に見えないものを取り扱うためには、

何が信念で、何がその帰結なのか、どの信念がより重要なのか、

といったことがわかるように構成する必要があります。

そうしないと、考察の中で矛盾が生じたときに、

どの信念を棄却すべきかわからなくなってしまうからです。

 

もちろん、何が思考の要素として適切か考えるときには、

天下り的な魔法の三すくみから考え始めたわけではなく、

日常的な思考を観察してピックアップしていきます。

ですが、概念の関係性をより分析するための、再構成をする上では

ただの直感を信じるだけだと、矛盾が生じたときに何も残らないので、

魔法の三すくみを信じることにして、それに当てはめて構成するというやり方をしています。

 

話が逸れましたが、私が言っている判断という言葉は、

日常的に使われる「判断」に相当する概念としてではなく、

「何かを反映する」だけの反射的思考につけた名前のことです。

 

そして結局のところ、存在を特定する働きは「何かへと向かう」思考だから、

反射的思考ではなく回復的思考だということです。

 

 

1.1.知覚1.2.特定の二つの働きは、一体何が違うのか?と感じる人がいるかもしれません。

どちらも存在を知る働きなのではないか?と思うでしょう。

 

「テセウスの船」という問いがあります。

その船は、部品を交換し続けて、ついには元の船とは全く異なる資材に置き換わったとしても、

同じ船と言えるのか?という存在の同一性を問う船です。

 

人間にしても、毎日細胞が分裂し、古くなった細胞はおきかわっています。

ですが、前の自分と今の自分は同じ私なのかということを疑問に思ったとしても、

少なくとも、細胞レベルの話を理由にはしません。

自分が変わったと思うなら、それは考え方の変化だとか、

昔やっていたことと今やっていることの違いだとかを理由に「変わった」と考えると思います。

 

テセウスの船を知覚したとき、部品が置き換われば、

新しくなった部分は新しいものとして、知覚に変化を生み出すはずです。

しかし、それでもテセウスの船はテセウスの船なのだと特定できるでしょう。

人間にしても、心が・考え方が大きく変わった直前と直後で、

見た目が対して変わっていなくとも、自分は変わったのだと思うように、

知覚できる自分にはたいした変化がなくても、

特定した自分のありようはかなり変わっているかもしれません。

 

知覚と特定の違いは、

知覚したものの同一性の定義と、

特定したものの同一性の定義が違う

ということです。

知覚したものが同一であるかどうかは

「心に浮んだ像・印象が同じである」ことによって決まるのに対し、

特定したものが同一であるかどうかは

「特定した存在が生み出す文脈が同じである」ことによって決まります。

目の前にいても文脈が変わらない相手は区別できない、ということです。

 

 

このように、特定という思考と知覚という思考を並列させて考えると、

特定という思考は、回復的思考ではなく、

存在を心のうちに呼び出している召喚的思考であると考えるべきではないのか?

と思う人もいるでしょう。

 

しかし、特定という思考の働きは、存在を呼び出すのではなく、

二つの対象が一致する存在かどうかを決定する、心の働きのことを呼びます。

その意味で、特定することは召喚的思考ではありません。

 

 


1.3.理解 | 存在の双対性による思考の分類

特定する思考などによって、存在が特定されたものとして心に浮かび上がり、

認識する働きのことを理解と呼びます。

理解は、私によって理解された存在を心に呼び出す召喚的思考です。

 

二つの思考、1.1.知覚1.3.理解はどちらも

存在を心のうちに獲得する召喚的思考です。しかし、

知覚は存在の形式を獲得する思考であり、

理解は存在の意味を獲得する思考だという違いがあります。

 

存在の形式とは、存在がどのように表れているか、どう記憶されるかということであり、

存在の意味とは、存在がなんであるのか、どんな文脈・ルールをもっているのかということです。

 

 

存在を特定する働きによって、存在を理解し、

その理解に基づいて、存在が生み出す文脈・ルールを、人は感じ取ります。

 

 


1.4.文脈 | 思考の三すくみと存在の双対性による思考の生成

様々な行動、思考の判断基準、自分の行動に関する理論のことを、文脈と呼びます。

目の前に何が存在して、それをどのように理解しているのか、ということが、

そのときの自分の文脈を作り出します。

文脈は、存在に対する理解を反映した反射的思考です。

 

特定することによって存在を獲得する理解が生まれ、

理解することによって存在を判断する文脈が生まれ、

文脈を知ることで存在を運動させる特定が生まれます。

 

つまり、

特定理解文脈<特定...

という相生関係の三すくみがあります。

 

さらに、ある存在について、

その形式召喚することが知覚であるのに対し、

その意味召喚することが理解である

そして、

存在の意味反射することが文脈であり、

存在の意味回復することが特定であるということから、

意味形式という軸の周りで、知覚からはじめる三すくみを回すことで、

文脈特定についての双対概念が得られます。

その二つをそれぞれ記憶推論と名付けます。

 

 


1.5.記憶 | 反射的思考における存在と世界の関係

知覚などの思考によって感じた存在をとめておく心の機能を記憶と呼びます。

記憶は存在に対する知覚、感覚・感情などにより生まれ、

そうした知覚を映しとった反射的思考です。

 

反射的思考である1.5.記憶1.4.文脈は、

どちらも存在を映し出す機能を持ちますが、

記憶は、存在の形式・存在がどのように表れたのか、を判断する・映し出す思考であり、

文脈は、存在の意味・存在がなんであるのか・どうなるのか、を判断する・映し出す思考だという違いがあります。

 

記憶は存在の形式・存在が持つ姿を世界に映し出しますが、

文脈は存在の意味・存在が持つルールを世界に映し出します。

記憶は存在を世界にあらしめますが、

文脈は存在が世界をあらしめます。

ある存在が生み出す文脈は、その存在が可能な運動、その存在の世界の範囲を表現します。

それはつまり「文脈とは、理解した存在が作り出す世界を映し出す思考」だということです。

 

この文脈に対する理解を形式的に記憶に当てはめると、

「記憶とは、知覚した存在が作り出す世界を映し出す思考」だと言えそうですが、

記憶が映し出している世界には、存在が生み出しているルールと呼ぶべき、

その世界の法則がないため、こちらはやや大げさにも見えます。

とはいえ、記憶は知覚できる世界の姿を映し出している、と解釈することもできます。

 

以上をまとめます。

記憶知覚した存在を世界に映し出し、

文脈理解した存在で世界を映し出す。

ということが、記憶と文脈の違いです。

 

 

存在を知覚することにより、

私たちは存在の姿を記憶することができ、

記憶により存在を投影した世界において、

存在を操ったり、組み合わせたりして、

新たな知覚理解を得ることができます。

そのような運動が推論です。

 

 


1.6.推論 | 思考の具体例とまとめ

理論に沿って・ルールの範囲内で、存在を操作・変形する心の機能を推論と呼びます。

推論は、世界のルールに存在を投影することであり、

ルールが許す範囲で存在を何かへ向かわせる回復的思考です。

 

 

推論という概念について、自明な例、

つまり、何も考えない思考を例にして、説明します。

 

例えば、物理法則は、何も考えないという思考の文脈的側面の例です。

もちろん物理法則という概念の内容も、物理法則の存在を信じることも、

人間が考えてきた対象ですが、

物理法則が何も考えない思考であると言うのはそう言う意味ではありません。

人間が考えたのは物理法則をどのように表現するかということであり、

宇宙にどのようにして物理法則を作り出し、適用するかを考えたわけではありません。

そして、物理法則の存在を信じるかどうかに関わらず、

私たちは物理法則と相互作用を起こすわけでもなく、

一方的に利用し、一方的に束縛され、生きているはずでしょう。

とはいえ本当に物理法則が宇宙の中身の影響を受けないのかどうか、

物理法則が私たちの影響を受けないのかどうか、僕は知りませんが。

その疑問は未来の形而上力学に期待して話を進めます。

 

物理法則は、人間が何を考えようと関係なく、宇宙が映し出される世界だという意味で、

物理法則は、何も考えない文脈だと位置づけることができるという話です。

 

推論を進めます。

物理法則が映し出す世界へ、何も考えない記憶によって存在を映し出すことを考えます。

何も考えない記憶というのは、宇宙の全ての物理状態のことです。

人間の記憶が、脳に刻まれた物理状態であり、

そこにアクセスすることが存在を心に映し出す・思い出す(考えられた記憶)ということであるなら、

アクセスするしないに関わらない物理状態が、何も考えない記憶です。

そして、アクセス不要な記憶の媒体は脳や海馬である必然性はなく、

あらゆる物理状態が何も考えない記憶を意味します。

 

推論とは、文脈・ルールが作り出している世界に、記憶で存在を映し出して、

ルールの範囲内で映し出した存在を操作し、何かへ向かわせることでした。

何も考えない思考を例にすれば、

物理法則の範囲内で物理状態が変化していくこと、

つまり物理運動のことを、何も考えない推論と呼ぶことができます。

 

より正確に言えば「何も考えない推論」ではなく

「何も考えなくても成立する推論」というべきかもしれません。

物理法則は、何も考えなくても成立する文脈

物理状態は、何も考えなくても成立する記憶

物理運動は、何も考えなくても成立する推論

ということになります。

 

 

物理運動は自明な例だったので、もう少し自明ではない例を考えます。

例えば、二つの数 x と y の足し算 x+y を計算する様子を考えます。

 

 

(以下、面倒であれば計算の様子は飛ばして構いません)

 

 

足し算をするときの文脈は、二変数関数  f(x, y) = x+y です。

(そのほか初等的な計算のルールなども、考えなくても成立する文脈だということにします)

 

文脈 f(x, y) が映し出す世界は (f(x, y), x+y) という形の数の組であって、

命題 f(x, y) = x+y を真にするもの全体のことです。

そういう世界に存在が映し出されます。

 

具体的に (2, 3) という存在を代入して考えます。

つまり 2+3 を計算するということです。

記憶によって (2, 3) を、文脈 f(x, y) が作る世界に、映し出す・思い出すことで、

 (2, 3)の姿は、(f(2, 3), 2+3)という組として映し出されます。

私たちは計算の知識を持っているので 2+3 = 5 であることを利用して、

存在 (2, 3) の姿を (f(2, 3), 2+3) から (f(2, 3), 5) に変形することができます。

 

実際、命題 f(x, y) = x+y に (x, y) = (2, 3) を代入すると

 f(2, 3) = 2+3 という命題を得ます。二変数関数 f(x, y) は x+y のことだったから、

 f(2, 3) = 2+3 は 2+3 = 2+3 のことであり、真なる命題です。

つまり (f(2, 3), 2+3) という組は、文脈  f(x, y) が映した世界に存在しています。

 f(2, 3) = 2+3 と 2+3 = 5 の式に等号関係の推移性を適用すれば、

 f(2, 3) = 5 という命題も真になります。

なので (f(2, 3), 5) という組も、文脈 f(x, y) が映し出す世界の一員だから、

存在 (2, 3) の姿 (f(2, 3), 5) は、文脈 f(x, y) が映している世界の範囲に収まっている姿です。

つまり、存在 (2, 3) の姿を (f(2, 3), 2+3) から (f(2, 3), 5) に変形することは、

文脈が許している変形であり、足し算は推論だと言えます。

 

 (計算はここまでです)

 

存在を空間に映し出している感じを形式的に表現したかったので、

変な計算をしましたがこれは大げさだと思います。

 2 と 3 を足したければ 2+3 = 5 を思い出すだけで推論になるでしょう。

 

足し算の例では、2 と 3 を足して、5 を得ました。

このことは、存在 (2, 3) を存在 5 へと向かわせる回復的思考だったということです。

 

またこのことは、2+3 を 5 であると特定し、

 2+3 は 5 であると理解した言えそうに見えます。

しかしこの推論において 2+3 が 5 であることは、ただ知っていたことであって、

特定だとか理解だとかいう表現は、大げさだと考えます。

この推論では 2+3 が 5 であることを記憶から映し出しただけの形式的な推論であり、

考えなくとも成立する特定であり、

考えなくとも成立する理解だったということです。

 

もし、これが足し算が目的でなく、ほかの知りたいことのために、

足し算をした、その結果によって、

何かの存在を特定・理解するために必要だった、などの文脈がついたとしても、

それはあくまで、何かほかの存在を特定・理解する思考であって、

 2+3 を 5 であると特定したり、 2+3 は 5 であると理解した思考ではありません。

 

もちろん、足し算を知らない状態から足し算ができるようになったときは、

足し算を理解したと言っても良いでしょうし、

 2+3 が 5 であると特定したと言って良いと思いますが、

知っていることを記憶によって映し出すだけであれば、

形式的に知覚を得ただけの推論だと考えます。

 

 

 

回復的思考である1.6.推論1.2.特定の違いは、

推論が、存在の姿について操作し、存在の姿についての知覚を生み出す思考であるのに対し、

特定は、存在の操作を通して、その存在がどのようなルールをまとっているのか、

その存在がなんであるのかの理解を生み出す思考であるということです。

 

推論することによって、存在の形式を獲得する知覚が可能になり、

知覚することによって、何を思い出すべきか判断する記憶が可能になり、

記憶が思い出されることで、存在の姿を操作する推論が可能になる、

という、存在の形式に関する思考の三すくみが、相生関係として存在します。

一方で、

特定することによって、存在の意味を獲得する理解が生まれ、

理解することによって、その存在が映し出されるべき世界を判断する文脈が生まれ、

文脈が敷かれることで、存在が向かうべき先の特定が生まれる、

という、存在の意味に関する思考の三すくみが、相生関係として存在します。

 

 

物理運動や、足し算といった推論の例を見てわかるように、

推論を生み出すための反射的思考である記憶と文脈を働かせるとき、

記憶によって思い出すべき存在、文脈によって映し出すべき世界を、

それぞれ選択する必要があります。

(この選択には物理法則など、考えなくとも成立する・選ぼうとしなくとも決定されてしまう選択を含みます)

反射的思考のことを判断と名付けたのは、記憶や文脈といった反射的思考が、

何を映し出すのかを意図的でないとしても選択する必要がある。

という意味をこめています。

 

 


2.思考の分類/形式

思考の6つの側面

知覚=存在の形式を召喚する

記憶=存在の形式を反射する

推論=存在の形式を回復する

理解=存在の意味を召喚する

文脈=存在の意味を反射する

特定=存在の意味を回復する

 

存在の形式に関する思考の三すくみ

知覚<記憶<推論<...

存在の意味に関する思考の三すくみ

理解<文脈<特定<...

(関係<は相生関係)

 

 

さて、ある対象の双対の双対をとる、つまり二重双対をとったとき、

対象が元に戻るかどうかは、対象によって様々です。

とはいえ二重双対をとった結果、元に戻らないとしても、少なくとも

元の対象より大きな、元の対象を拡大したような対象にはなる

と言われています。

また、三重の双対を取った場合はだいたい、

ただの双対に戻ることが多いとも言われています。

(どこで?だれに?)

 

それはそれとして双対性方向に思考を生成していくと、

ここまででは考察できていないような

より根源的な思考、ならびに、より超越的な思考が

得られるのではないか、と期待して今は放置します。

 

 


3.思考の次数 | 思考の観察を通した瞑想法

思考を数える単位を、まだ私たちは持っていませんでした。

しかし、なんとかして思考を数えたいです。

 

ある思考から、別のある思考を得るまでに、

どれだけの思考を行なったのかを数えるための概念である、

思考の次数を以下のように定義します。

 

 

ルール

 

0.思考をはじめるときは、思考の次数を0とする。

 

1.思考をしていて、思考の三すくみが一周したら、

つまり、反射・回復・召喚の三つを思考したら、

思考の次数を1増やす。

 

2.一周したときの思考により、次の思考が誘発されたら、

その思考についても三すくみが一周すれば、

思考の次数を1増やす。

 

3.思考をしているうちに、(存在の双対性によって)

形式から意味、あるいは、意味から形式へと、思考が誘発されたら、

思考の次数を1増やす。

 

ルールは以上です 

 

どういう数を次数にするかは、自然数以外でも考えることができます。

 

1.双対性と三すくみはそれぞれ別枠で数えて、

(双対の回数, 三すくみの周回数)という二つの数の組で次数を数えてもいいですし、

 

2.あるいは、双対と三すくみの2方向の分岐が続くツリー(道)のパス(経路)をたどるものとして

次数を数える(道順を覚えておく)としてもいいです。

 

自分で気に入った数・ルールを決めても構いません。

 

 

思考は何が何だかわからないため、モニタリングするのはとても難しく、

そのため思考の次数を数えようとすることは、自己観察の瞑想になります。

 

実際にはうまく数えられなくても構いません。

違和感があるのに、無理やり数えることはないと思います。

 

そして、生のままの思考を数えるよりは

何回か考えて整理した後の思考について、なぞるように数える方がやりやすいと思います。

 

 

では、いろいろやってください。