感情の柵(しがらみ):常識の剰余

こんにちは、ねんてんです。

人生は、しがらみです。

 

人間は、関係しています。

人間は、自分や他人、そして存在に、様々な属性を与え、解釈をして、

理解している文脈に沿って生きていくことを、期待し、期待され、

期待することを期待され、ときに期待されることまでも期待しています。

 

AとBが関係しているというのは、Aを説明するのに、

Bを使うことができるとか、Bを使うことができるだけのルールが存在している、ということです。

 

わたしたちは、知っていることを組み合わせて、知らないことを説明します。

わたしたちは、期待していることを組み合わせて、自分や他人を説明します。

人間は、何かを関係させることで、自分にとっての普通や常識、ルールを心の中に表現しています。

 

 

自分にとって、何が普通かは、気がつきにくいです。

人間が何かに気づくのは、あたりまえではないことが起こったときです。 

感情が湧き上がり、自分が関係させていた物事の外側の出来事を

目の当たりにすることができます。

 

 

そこで、世界を感情にマッピング(写像)してみましょう。

わたしがみる世界には、あたりまえなことと、そうでないことがあります。

 

あたりまえなことは感情を引き起こさないので、

感情の空間にあたりまえなことを映し出すとゼロになるでしょう。

そして、あたりまえではないことについては、

怒ったり喜んだり悲しんだりするので、

それぞれの感情が対応することにしましょう。

どんな出来事ならどんな感情がうまれるのかという

具体的な部分は今回興味がないので考えません。

 

注目するのはゼロになるか、そうでないかということです。

物事を分類したときに、ゼロに対応するものと、それ以外のもの

というのはとても象徴的に扱うことができるからです。

 

小学校で割り算をやったとき、割り切れない数の割り算を習ったことを思い出してください。

5を3で割ったら、1あまり2などと計算したと思います。

あまりを計算する割り算のことを、剰余と言いますが、

剰余の考え方を一般化して、空間に対して剰余をとることで、

空間を分割し、要素を分類することができます。

 

--数学の話をします--

例えば、整数を3で割ったときのあまりは、0か1か2のどれかになります。

つまり、整数に対して、3で割ったらどうなるのかを考えると、

整数を0,1,2という3つの数のうち、どれになるかを分類できるということです。

整数全体に対して、3で割ったあまりを考えることで、

整数全体という1次元の空間を、3つに分割することができます。

--数学の話をやめます--

 

こうしたイメージをわたしたちが感じている日常に適用します。

つまり、わたしたちは何かを関係づけることによって、

出来事から感情を取り出す心的な計算を定義しています。

この感情が、人それぞれの割り切れない思いであり、剰余です。

3の倍数であるような整数は、3で割ってもあまりが0になるように、

自分にとってあたりまえであるような出来事は、自分の身に起きても感情は変わりません。

そして、自分にとってのあたりまえという、自分が結びつけている関係性によって

さまざまな感情が生まれ、出来事を感情によって分類できます。

 

--数学の話をします--

写像で映したときに、ゼロになってしまうような部分を核(Kernel)といい、

写像で映しだされた部分を像(image)といいます。

今回のアナロジーでは、あたりまえの出来事全体が感情の核で、様々な感情が像です。

3の倍数の話だと、核は3の倍数全体で、像は3で割ったあまりの0,1,2です。

--数学の話をやめます--

 

 

感情は様々な形で現れます。

恐れ、喜び、使命感。

感情に惑わされながら、人は判断をしていきます。

 

感情を観察することで、自分は何をあたりまえだと考えていて、

自分は何を尋常ならないと考えているのかを、分析することができます。

そして、自分だけでなく、他人についても、その表情や行動から、

相手の常識を推定しようとすることができます。

 

もちろん、必ずしも適切な推理ができるとは限りません。

顔がニヤつくのを我慢していたら神妙な顔になってしまう人もいるでしょう。

人がはちゃめちゃな闇を見せているとき、僕は嬉しくてニヤつきそうになるのですが、

それを我慢しています。他人の闇を思い出し我慢しているときふと鏡を見たら、

めちゃくちゃ他人を心配している困り顔をしていました。

あまりに、内心とは全く異なる善良な表情をしていて、自分のことが怖くなりました。

それともこれはニヤつきを我慢する社会性のある人間を高評価するよう、

遺伝子に組み込まれていたからだったのでしょうか。

いずれにせよ、感情を知るのには表情はあまり当てにならないかもしれません。

 

外面を取り繕うのが上手な人はいくらでもいるでしょうし、

必要ない限りむやみに詮索することもありません。

それより重要なのは、人によって常識は異なるということです。

感情も同じとは限らないということです。

 

人は他人の行動を約束・予測しながら、自分の行動を決めていきますが、

常識が異なると、約束の仕方を約束する必要がうまれてきます。

約束の仕方を約束せずに、他者の行動を予測しても、

一方的な予測でしかなかったりするからです。

 

言わなくてもやってくれるつもりだった、というすれ違いは、

人それぞれどの程度を許容するのかはともかく、

家庭、職場、友人関係、さまざまなコミュニティで発生するしがらみです。

 

約束の仕方を約束するという再帰的な約束、たとえば

「頼みごとはちゃんと口にしよう」という約束を、人はめんどくさがります。

人間関係を円滑にするために、人はしがらんでいき、

しがらみが人間関係を大変にします。

 

人間関係を円滑にするために、人知れず犠牲を払うひとと、

そうでない人がいるのだとしたら、それが弱者と強者なのかもしれません。

大抵の場合、お互いが犠牲を払っていて、相手の犠牲は見えにくいものですが。

 

とはいえ、人それぞれの抱いている常識が

不平等な状態で共有されているとしたら、

それは非対称なコミュニケーションと言えるでしょう。

もし、犠牲を払うことがあたりまえだ、という常識を持ち合わせていなければ、

弱者は犠牲を払うことすらできなかったはずです。

犠牲を払わない代償はコミュニケーションの齟齬なので、

相手を説得できなければコミュニティは崩壊するかも知れません。

常識からはみだされた弱者ほど、より高い能力が求められるのが、

神のいない世界・多様性のない社会です。

 

人はコミュニケーションを通して、

自分の常識と、相手の常識の、最大公約数を大きくすることができます。

最大公約数というのは、苫米地用語としても頻出する

LUB(Least Upper Bound, 最小上界)の双対概念である、

GLB(Greatest Lower Bound, 最大下界)にアナロジーできる概念です。

大学1年生くらいで習う数学用語なので聞いたことがある人もいるかも知れません。

僕が大学生の時は苫米地博士もチェックしてたので

授業中にちょうど出てきてシンクロニシティを感じていました。

こういう言葉を知っていると、

「自分と相手の常識のGLBを大きくすることで、相手をより理解できる」

「自分と相手の常識のGLBを大きくするにはコミュニケーションをとろう」

のように、しょぼい話を飾り立てるのに便利なのでみなさん覚えておきましょう。

いえ、物事を構造化して考えを深めるに役立つことがあるので覚えておきましょう。

 

 

 

まとめます。

 

わたしたちは、ものごとを関係づけることであたりまえを表現し、

その関係性で社会を割り、結果割り切れなかった感情のなかで生活しています。

自分と他者の間の割り切れない感情の、最大公約数を探りながら、

日々しがらみを深めたり、ほどいています。

しがらみを解くには、感情を物質化、言語化して、相手に自分を伝えることから始め、

再帰的な約束を取り付けるモチベーションを共有するのが現実的です。

 

 

柵(しがらみ)を解放するのは、あなたです。